琉球びんがたのお話
琉球びんがたとは
琉球びんがたは沖縄の豊かな自然や特色を鮮やかな色彩や図柄で表現した、最も代表的な伝統的手染物です。戦前までは琉球衣装として、戦後には和装として多く染められ、戦前以上に全国へと広がっていきました。
起源は15世紀ごろまで遡ることができます。
中国やインド、ジャワの更紗などの染色技術を基に琉球びんがたが生まれたとも言われており、「紅型」という漢字表記が広く普及され始めたのは昭和初期ごろから。それまでは「びんがた」のひらがな表記、更に「型付」「型附」(かたちき)と呼ばれていました。
またこの紅型の「びん」が何を意味するのか。この話は紅型界ではいくつも説が伝わっており、インドの「ベンガラー」から転じた説、「びん」が色という意味を表す説など様々です。
そんな古くから続く工芸を代々受け継いできた家系があります。まず、琉球びんがたの基礎を作ったといわれる「沢岻(たくし)家」。元首里城下の村にあり首里の染屋中最も古い家系とされています。日清戦争中までは紅型や藍型の仕事をしていたとされています。
16世紀頃から現れたのが「知念家」。知念家は中国(唐)に渡り、唐型紙の技術を学び、紅型に取り入れ発展させていきました。
それから沢岻、知念とともに古い伝統を持ち、戦後、紅型の復興に力を注いだ「城間家」。琉球王朝時代は「下儀保村」「上儀保村」などそれぞれ家筋ごとに何軒も工房がありました。
1400年代初期から1800年代後期の王朝時代、紅型は王族や士族の階級を示す役割を持っていました。主に王族だけに許された模様、構成、そして色。これらの手のこんだ豪華で美麗な衣装は「首里型」といわれています。例えば、黄色の着物は当時、王様のみが着用を許されていました。
一方で庶民や特別に認められた者に着ることが許された「那覇型」があり、落ち着いた色や首里型よりも小さな柄を使ったりと、一見地味にも思える作品の中に、緻密で奥深く繊細な技法が用いられていました。この那覇型も現在の和装の紅型に通じる色づかいがなされているとも思えます。
もうひとつ、紅型の祖といわれる「浦添型」。印金手法やコンニャク糊で墨をすり込む技法で沢岻家に伝えられてきた紅型があります。
他にも型紙を2枚使い、柄を重ねて染め上げていく「朧型(うぶるー)」。裏表全く同じ工程を行い染めていく「両面型」。琉球藍を使って染める「藍型(いぇーがた)」など、技法それぞれが沖縄の歴史に色を染めてきました。
そんな紅型も薩摩侵攻、琉球処分、太平洋戦争などの影響により、歴史の中で何度も消えかけ、その度に荒波を乗り越えて現在に繋いで歴史を紡いできました。琉球びんがたは沖縄の歴史そのものと言っても過言ではありません。