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紅型作家の中には、かつての琉球王朝士族に仕えた紅型三宗家と呼ばれる工房を持つ作家がいます。

知念家、城間家、沢岻(たくし)家がその紅型三宗家と呼ばれています。

知念家は、中国から唐紙の技法や印金紙・緞子紙を学び、筑登之親雲上(ちくどぅんぺーちん)という地位を与えられ士族以上の階級が着用する紅型を作ることが許されていました。

ところで、知念家の何代目かを数えるときに初代は「知念績高」から数えます。

この知念績高は紅型作家でなく、王朝よりその力を認められ「ミーハギー知念」の異名を得た宮廷音楽家。

彼は今から数えて約十代前の人物で、それより以前に十何代も紅型を続けてきた家柄の中で、音楽の才能を花開かせた天才でした。

知念家はこの知念績高が新参一世(初代)となり、その後の知念家の家筋へと続くこととなります。

では、紅型知念家はどう繋がっていくのか。

それは知念績高の弟達「次男知念筑登之親雲上〈寿庵〉」筋が守り続けています。

知念紅型研究所の家筋は「下儀保知念」という次男知念筑登之親雲上の大家長男筋に当たります。

 

初代・次男知念筑登之親雲上(績高弟)(紅型

二代・知念筑登之親雲上(紅型

三代・知念筑登之親雲上(紅型

四代・知念筑登之親雲上(紅型

五代・知念績昌(紅型)

六代・知念績貞(紅型資料保存)

七代・知念雅次郎(早世)

八代・知念貞男(紅型)

九代・知念正人

十代・知念冬馬(紅型)

そして、戦後の紅型復興と技術継承の立役者となった知念績弘がいます。

彼は、「上儀保知念」という次男知念筑登之親雲上の更に次男筋に当たります。

この「上儀保知念家」の知念績弘が戦前の低迷期も紅型を続けてきた人物です。​この家系がなければ、知念紅型は無くなってしまっていたのではないかと考えています。

以下参照

初代・次男知念仁屋(紅型)

二代・知念筑登之親雲上(知念仁屋嫡子)(紅型)

三代・知念績朗(紅型)

四代・知念績秀(紅型)

五代・知念績弘(紅型)

六代・知念績元(紅型)

と続くわけです。

両家とも祖先は同じ次男知念筑登之親雲上〈寿庵〉から成る、今では大事な紅型知念を守り続ける家柄です。​

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​知念びんがた家系図

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下儀保=下儀保村知念
上儀保=上儀保村知念

戦前の紅型は、薩摩侵攻や廃藩置県など王国外からの影響により殆ど作られていない状態にありました。まだ知念績昌や知念績清などの手では作られていましたが、昭和に入るとその殆どが消滅の危機に陥っていました。

そんな中、知念績秀(上儀保)と知念績輝は、知念績弘(上儀保)にその技術を伝えます。

知念の紅型の技術をその身に宿した績弘は、戦時中から戦後にかけての紅型の技術保存、継承、復興、そして発展と非常に現代へ続く琉球紅型に無くてはならない人物となります。

けれど、それだけでは知念家の紅型どころか琉球紅型そのものの復興は成り立ちません。

大正から昭和初期にかけて、大家である知念績昌(下儀保)の自宅には、非常に大量の型紙が保管されていました。知念貞男曰く、倉庫にそれはそれは多くの型紙が吊るしてあったそう。

現存する古典柄の中で大柄の多くは知念家が中国から学び、作り上げた柄だと言われています。ですから、それだけたくさんの型紙が残されていた事でしょう。

そんな中、本土から沖縄文化研究者となった染織家・鎌倉芳太郎氏が来沖し、荷車いっぱいの型紙を知念績昌(下儀保)から大量に譲り受け、香川県に持ち帰って行きました。

この出来事があったからこそ、紅型の資料は第2次世界大戦の戦火を免れることとなります。

 

鎌倉氏が残している文献で「型紙ほぼ全てを譲り受け」と書かれていますが、昭和10年代に入っても屋根裏には大量の型紙がありました。

戦前、績昌は完全に廃業をしていたわけではなく、紅型やその歴史の保存へと尽力したことが伺えます。そしてそれは績貞へと受け継がれます。

時代は戦後へ移り変わり、績弘は戦後十数年間、日中は紅型には手を付けられずに毎日生活のため軍作業へと出かけていました。紅型だけをしていてもやはり暮らすことは難しい時代。そんな時、知念貞男(下儀保)績弘(上儀保)に紅型の技術を習いに訪ねます。

績弘は、

「大家のあなたが継いでくれるなら、僕もあの世に行ったら先祖に褒めてもらえる。それならば。」

と日中は軍作業、夜は貞男と紅型を染めるという日々へと変わりました。

そこで績弘の守り続けた知念家の技術と伝統が再起することとなります。

そして、知念貞男が1972年に「知念紅型研究所」として下儀保知念紅型を再開。

知念績元も紅型の世界へ本格的に入り、その後、績弘と績元は首里の地に「知念びんがた工房」を設立。

そうやって、知念家の琉球紅型は復興していきました。

 

現在、

「知念紅型研究所」(下儀保)

「知念びんがた工房」(上儀保)

2つの知念紅型が沖縄には存在しています。

どちらかがかけていたら、知念の紅型はなかったかもしれない、

それが現在に続く知念の紅型です。

琉球時代の王朝から知念紅型への注文書覚書(知念紅型研究所・所蔵)

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1972年知念紅型研究所は紅型三宗家の知念家・知念貞男により創設。

創設から今日まで、伝統技術を守りながらも新しい方法や作品を世に送り出せるように知念紅型研究所は日々研究しております。

それは、知念積弘からの

 

「いい作品はいつできるかわからない。作品への評価は十人十色。それを作り出すために日々勉強だ」

 

という言葉を代々心に持っているから。

また、知念績弘は「紅型 沖縄の心を染めた紅型」(泰流社:昭和51年再販発行)という本の中でこう記している。

「本家でも紅型をはじめましたので、知念家の伝統もこれで安泰だと、ほっとしています。」(P174より引用)

本家とは知念紅型研究所のこと。

紅型を戦前戦後と守ってこられた知念績弘が大家だと思っていてくださっていたこと。これほどありがたい言葉と、知念家の紅型への想いを頂いて当工房は続けてまいりました。

しかしながら、知念紅型は績弘がいたからこその歴史です。

本来はどちらが大家でも分家でもなく、知念紅型全体での「宗家」だと思っています。だからこそこの先の未来も守っていける歴史なのではないでしょうか。

現在、知念紅型研究所は知念冬馬が跡を継ぎ、日々紅型はせっせと染め上げています。

この着物と出会ったお客様がに幸せが訪れますように。その思いを、一つ一つ、一筆一筆に込めて日々作品作りをしています。

 

紅型が一生、文明が続く限りはどんな形ででも残していきたい。

紅型に携わる人が一人でも多く長く続けていける業界に発展させたい。

そのためには先人たちが作り上げてきた歴史が欠かせません。

紅型にまつわる歴史や技術をしっかりと人々に伝えていき、その価値や重要さを大切だと知ってもらう。

モノよりコトの時代へと突入した現代、より大事に丁寧に皆様の元へ届けていけるよう日々制作してまいります。

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一九八八年生まれ

下儀保知念家十代目

知念紅型研究所社長
故知念貞男氏と知念初子氏より

伝統的技術技法を継承

・日本工芸会準会員・沖展準会員

二〇一三年 第六十六回沖展 入選

二〇一四年 第六十七回沖展 入選

二〇一五年 沖縄新鋭選抜協議会 準選抜受賞

二〇一六年 第六十九回沖展 うるま市町賞受賞

      第五十二回西部伝統工芸展入選

二〇一七年 第七十回沖展 奨励賞受賞

      第五十三回西部伝統工芸展

      西日本新聞社賞受賞

二〇一八年 第七十一回沖展 奨励賞受賞

​二〇一九年 第五十四回西部伝統工芸展

      奨励賞受賞

二〇二〇年 第七十二回沖展 奨励賞受賞

二〇二一年 第六十八回日本伝統工芸展

      工芸会新人賞受賞

二〇二二年 第七十三回沖展 奨励賞受賞

      第五十四回西部伝統工芸展

      奨励賞受賞

知念冬馬

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一九三二年生まれ

下儀保知念家八代目
琉球びんがた技術保持者故知念積弘氏より

伝統的技術技法を継承

 

昭和四十七年 知念紅型研究所設立
一九九三年〜
一九九八年

       琉球びんがた事業共同組合理事長

一九七八年  日本民芸協団展三重県知事賞

一九八五年  西部工芸展鹿児島県知事賞

一九九三年  沖展準会員賞

       西部工芸展沖縄県知事賞

       日本伝統工芸染織展文化庁長官賞

一九九四年  日本伝統工芸展入選  正会員認定

       西部工芸展浦添市長賞

一九九五年  沖展準会員賞 沖展会員に推挙

二〇〇一年  沖縄タイムス社芸術選賞大賞

二〇〇七年  伝統文化ポーラ賞優秀賞

二〇一二年  没。享年八十一歳

知念貞男

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一九三三年生まれ

故知念積弘氏より伝統的技術技法を継承

​知念紅型研究所設立以前から

琉球びんがたに携わる。

紅型の技法と琉球の色彩にこだわりつつ、

日々研究を重ね、

知念貞男と二人三脚で長年琉球紅型に従事。

二〇一四年〜二〇一八年まで

知念紅型研究所社長を務めた。

知念初子

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